エンジニアは閉じた世界から、広い世界でチャレンジする時代へ。
「ヤフー」の新卒第一期入社からスタートし、「cakes」等の人気サービスを生み出してきたエンジニア、原永淳さん。現在はシンガポールに拠点を置くベンチャービルダーReapraのCTOとして、起業家のサポートにあたっている。スタートアップの成長をサポートする立場にたった彼が、新しいWebサービスを構築する若きクリエイターに期待することとは何か。若手エンジニアの育成から東南アジアでのWebサービス立上げまで、豊富なエンジニア経験のある原永さんだからこそ語れるエンジニア論に迫ります。
「やらずに後悔するのか、やって後悔するのか、どっちか選べば?」
―なぜエンジニアとしてのキャリアを進むことになったのですか?
6歳年上の兄の存在がとても大きいですね。兄は中学生の頃からプログラミングを学んでいて、幼い私は兄が作ったゲームで遊んでいたんです。兵庫から東京の大学に進学した兄は卒業後に当時まだ珍しかったベンチャー企業のCTOを努めていて、その頃、私も東京の大学の理工学部に進学したのでよく兄の職場に遊びに行っていました。
―プログラミングの勉強はそこで?
いえいえ、プログラミングどころか私がパソコンにはじめて触れたのは大学に入ってからで、学部時代も普通にインターネットサーフィンに使うことしかしていませんでした。兄から大学入学前にグーグルやヤフーといった革新的なサービスがあることは聞いて、興味はもってはいましたけど。
―ではエンジニアを目指すことになったきっかけは何だったのですか?
兄のベンチャー企業で働いている人達がとてもイキイキとしていたのでITベンチャーに関わりたいと思っていました。そこで、大学4年生の時に情報系の研究室に入ろうと思っていたのですか、抽選で落ちてしまったんですよね。私が困っていると、理工学部の教授に大学のネットワーク管理者をやらないかと、声をかけてくれたんです。ネットワークなんて全くわからないので最初は戸惑ったのですが、その時、教授に「やらずに後悔するのか、やって後悔するのか、どっちか選べば?」と言われ、失敗して後悔してもいいからやってようと思い話を受けました。
―ネットワーク管理者からエンジニアとしてのキャリアがスタートしたのですね
そうですね。ネットワーク管理者は大学院卒業までの3年間携わっています。サーバ、ネットワークの知識はこの時の経験が土台になっています。大学院1年生の夏休みの出来事なんですけど、教授から研究室のサーバの入れ替えを指示されました。予算はトータル600万円で全サーバ入れ替え。今思えばかなりの無茶振りですけど、夏休みを使ってなんとか全てのサーバを入れ替えました。サーバの名が付いたものは全て自分で作れるようになったので、大きな自信に繫がった経験です。
絶対にミスが許されない環境、そのプレッシャーから学んだ
―大学院卒業後はどちらへ?
ヤフーに新卒で入社しました。その当時はインターネット事業をやっている会社で新卒の募集しているところは少なかったんです。他の職種もいくつか受けたのですが、やっぱ、なかなかしっくりきませんでした。そんな中で、ヤフーが新卒での募集をしていると聞いて受けてみたところ、たまたま受かってしまいます。
―ヤフーではネットワーク関連に配属されたのですか?
私が配属されたのはヤフーのソフトウェアのエンジニアです。ここではソフトウェア開発のための本格的なプログラミング技術が必要なのですが、サーバの事しかやってきていないので、全くといっていいほどの素人でした。ヤフーも初の新卒採用ということでエンジニアの教育プログラムは万全といえるものではなく、仕事をしながら覚えていった感じです。
―エンジニアのキャリアとしては異例では?
かもしれませんね。ただ、当時のヤフーがまだまだベンチャー体質だったことが私にとってはとても良い環境でした。現場の仕事のなかでソフトウェアのエンジニアとして学べるところが非常に大きかったです。仕事のスピード感がとても早く、最初にエンジニアとして働くには最高の職場だったと思います。プログラミングの技術を早く自分のものにするため、入社後2ヶ月くらいは会社に残ってひたすら本を読みながら勉強していました。この頃、家に帰った記憶があまりないんですよね。
―ベンチャー企業が体質的に合っているんでしょうか?
そうかもしれません。学生時代に遊びに行って兄のベンチャー企業のオフィスの空気感、憧れていた環境がヤフーにはありました。周りのエンジニアがいきいきと働いている姿はやはりとても刺激的です。当時のヤフーはまだまだ少人数だった中、責任が伴う仕事が任せてもらえることになります。忘れることのできない最初の成功体験です。
―その仕事が成長に繋がったんですね
ヤフーのページの中でも重要なページのプログラミングを任された経験があります。絶対にミスが許されない環境での仕事でした。プレッシャーがすごかったです。けれど、そのプレッシャーの中で自分のパフォーマンスを発揮して、責任をもって最後までやりきることができたのは大きな達成感でした。
ビジネスと技術の双方を理解したエンジニアを育てたい
―その後、ヤフーを退職されていますが何がきっかけだったのですか?
ヤフーで責任ある仕事を任されるようになると、自分よりもすごい人が沢山いて、この人達には敵わないと気づきました。大きな挫折感を覚えています。その後のキャリアについて考えていた時に、大学の教授に言われた「やらずに後悔するよりも、やって後悔する」を思い出したんですよ。やってから後悔してみよう、自分で会社をやってみようと思い、ヤフーを退職したわけです。
―起業してどのような事業をされていたのですか?
開発会社で、エンジニアリングの手伝いからスタートしました。徐々に自分の技術を使って売上が立つようになります。主な事業はeコマースサイト構築です。ヤフー在籍時には使っていなかったPHPなどの言語を使う必要があったので、起業後にまた本を使って勉強していました。その後、縁あっていくつかの会社のCTOを経験しています。ブラケット社ではユーザー同士でのカーシェアリングサービスを作りました。次に手掛けたのは「cooboo」というC2Cのハンドメイド商品のマッチングサイトです。
―その後も次々にサービスの立ち上げを?
coobooを事業譲渡した後、エンジニアを育てる学校を運営しています。当時からスタートアップでエンジニアを採用することは困難でした。私が目標としていたのは、ビジネスの現場もわかり、技術もわかるハイブリットなエンジニアの育成です。複数のサービスの立ち上げをした経験から、エンジニアは起業家をこの両面からサポートする必要があると強く感じていたのです。
―その後、東南アジアでお仕事をされるきっかけは?
学校運営の一貫でベトナムのエンジニア育成学校に伺う機会がありました。ベトナムのエンジニアの高い技術力に驚いたことを今でも鮮明に覚えています。ベトナムをはじめ東南アジアのエンジニアの市場価値が伸びていたことは知っていました。そんな環境の中、優秀なエンジニア達を自身の目で見たことをきっかけに、東南アジアのエンジニア育成にも関わるようになりました。
ケイクスはスマートフォンで本を読むようになる、出版業界の変化を予想して生まれたサービスです。実はこのサービスには多くのベトナムのエンジニアに参加してもらっています。私はこの頃からシンガポールに住まいを移して、ベトナムのエンジニアと東京のエンジニアのマネジメントをしながら、ピースオブケイクに携わっていました。
―ベトナム以外にどんな国と関わっているのですか?
ピースオブケイクの後、アグリバディというカンボジアで農業の課題を解決するスタートアップに参加して、作物の生産管理を行うアプリをリリースしています。農家向けのマイクロファイナンスが広がるように、農家のスコアリングデータの貸し出しなども行っています。
若手エンジニアには「長期的な目線」でキャリアを描いてほしい
―エンジニア・CTOと幅広い仕事に携わっていますが、仕事の中でこだわっているポイントなどありますか?
エンジニアの理解だけでサービスをつくるのではなく、起業家がやりたいことを理解して、プロダクトのコアコンピタンスを一緒に考えています。次に、MVP(Minimum Viable Product)かつユーザーにとってわかりやすいサービスを作ることです。エンジニアにはUI/UXの理解も含めて、エンジニアリングだけでなく、広くビジネスの知見を深めていくことが大事だと考えます。
―これからのエンジニア、クリエイターに必要なことはなんだと思いますか?
長期的に事業と組織をマネージするという視点です。今までのスタートアップは短期ゴールを目標に置くカルチャーでした。とにかくプロダクトさえできればいい。優秀な人をあつめて一気に作り上げるというカルチャーです。ただ、このやり方だと、組織の中の教育が蔑ろになってしまい、長期では生き残れない組織になってしまいます。成長できる環境を一緒に働くエンジニアに提供することが大事です。特にシニア層のエンジニア、クリエイターが意識すべきことと考えています。
―では、若手エンジニアに期待していることはありますか?
プロダクト開発の世界に閉じこもらずに広い世界でチャレンジをしてほしいです。私はいつも短期的な目の前の目標だけに向かって動いてきたように思います。今になって、長期的に自分がどうありたいのか、市場の中でどういう価値を出すエンジニアになりたいのかなど、長期的な目線でキャリアを描くことの重要性を認識するようになりました。
―エンジニア及びWebサービスのクリエイターの将来について一言お願いします。
今後はAIの学習が進むことでエンジニアの仕事が奪われるかもしれません。プログラマーもその他のクリエイターもコモディティ化されてしまうでしょう。ベトナムのエンジニアの給与はどんどん高くなっています。開発オフショア拠点も社会状況によってどんどん変わっていくでしょう。社会状況が変わっても、変化に柔軟に対応できるキャリアを描いてほしいと思います。
―本日はありがとうございました
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原永 淳
ヤフー株式会社にエンジニアとして新卒第一期入社。その後独立し、スパーク・ラボ株式会社を設立。ハンドメイド製品のオンラインマーケットプレイス「cooboo」を運営し、GMOペパボに事業譲渡。株式会社ブラケットの取締役兼CTO、株式会社ピースオブケイクの取締役兼CTOを歴任。2013年4月にシンガポールに移住し、2015年9月よりAGRIBUDDYに参画している。現在はシンガポールに拠点を置く、ベンチャービルダー、REAPRAのCTOを担う。1977年、兵庫県生まれ。青山学院大学理工学研究科機械工学専攻博士前期課程修了。